
あいさつ

主として泌尿器・男性生殖器疾患を扱う泌尿器科学講座は、1950年に前身である皮膚泌尿器科学講座より分離独立して以来、半世紀余が過ぎました。この間、稲田 務教授(1950-1967年)、加藤 篤二教授(1967-1973年)、吉田 修教授(1973-1997年)の指導のもとに発展しましたが、特に24年という長い在任期間を務められた第5代教授の吉田 修名誉教授は、当泌尿器科講座の臨床・教育・研究における基盤作りに大きな貢献をされました。おりしもこの時期に、我が国における泌尿器科学は急速に進歩し、この間において当教室は我が国の泌尿器科学、特に泌尿器腫瘍学の発展に大きく貢献したと自負しています。
1998年12月には、第6代教授として小川 修が着任し、関連する大学、地域の基幹病院と連携をとりながら、泌尿器科学の臨床、教育、研究を推進しています。小川の着任後、すでに10年が経過しましたが、この間、「泌尿器科プロフェッショナルの育成」という大きな基本方針のもとで活動しています。 そして、それを実現するための具体的な方策として、大学間の垣根を取り払った人材交流や卒後専門医教育プログラムの構築などを推進しています。
(記:平成20年10月)
教授一覧
( 歴代教授 )


明治35年(1902)、皮膚病学講座が開講され、松浦有志太郎が教授に就任。この時より泌尿器科疾患も研究治療の対象となり、大正2年(1913)に外来の1診察室を恥室と名付け、ここで尿道疾患の診療が行われるようになった。診療は西部講堂で行われていた。大正8年(1919)松浦教授勇退の後、松本信一が教授に就任したが、助教授の井上五郎は専ら泌尿器科学の診療研究に力を注ぎ、ドイツ、アメリカに留学し、帰国後精力的に泌尿器科学の診療と研究の指導を行った。
昭和9年(1934)、泌尿器科講座が開設され、当初は松本が教授を兼任した。昭和13年(1938)井上が初代専任教授となり、ここに泌尿器科学講座の第一歩が踏み出された。しかし教室は皮膚科泌尿器科教室の形をとっていた。井上教授は昭和13年(1938)に日本泌尿器科学会会長を務め、2回にわたって「膀胱砕石術」「尿路結核」の宿題報告を担当し、その他膀胱腫瘍に関する研究業績があり、わが国の学会に寄与するところ大であった。また当時外来診察室にはX線装置と膀胱鏡室を備え、このような近代的設備は本邦では京都大学だけであった。
昭和17年(1942)井上教授退官後、翌18年(1943)満鉄大連医院副院長柳原英が第2代教授に就任した。柳原教授はさきにフランス、アメリカ留学後、尿路性器X線検査法を中心に数多くの業績を発表し、「排尿異常」と題した宿題報告も行っている。第2次世界大戦下の窮乏の中で研究診療に当たり、精嚢に関する研究を完成したが、昭和22年(1947)わずか4年で停年を迎えた。(「京都大学百年史」より)

柳原教授の退官後、3年間教授空席のまま、昭和25年(1950)助教授稲田務が教授に就任し、同時に泌尿器科教室が皮膚科泌尿器科教室より分離独立し、教室職員、研究室、病床などの分離が行われた。
稲田教授は昭和25年(1950)、日本泌尿器科学会総会にて「排尿異常と膀胱の機能的変化」の宿題報告を行い膀胱三角部異常症の病像を確立し、昭和30年(1955)、昭和41年(1966)には総会会長を務め、終生の研究として2度にわたる尿路結石の疫学調査の宿題報告を行った。その他泌尿器科学各分野にわたり広範な研究がなされ、多くの新機軸を打ち出した。昭和30年(1955)稲田教授編集による学術雑誌「泌尿器科紀要」が発刊され、現在我が国における指導的専門誌として内外に高く評価されている。(「京都大学百年史」より)

昭和42年(1967)、稲田教授の退官後、代わって広島大学教授の加藤篤二が教授に就任した。加藤は1956年から1967年の間広島大学教授として活躍。この時代に第14回日本内分泌学会西部部会(昭和37年)、第52回日本泌尿器科学会総会(昭和39年)の会長を務めた。前立腺癌、前立腺肥大症などの前立腺疾患に関する研究に大きな業績をあげた。また腎不全治療のため人工腎室を早くより設置し、本院の人工腎臓部の基礎を作った。
しかし、大学紛争の大きな嵐に呑み込まれる中、昭和48年(1973)に退官した。京都大学時代には、昭和46年には第3回人工透析研究会、昭和48年には第3回腎臓病学会西部部会の会長を務めた。(「京都大学百年史」より)

加藤教授に代わって、昭和48年(1973)当時講師であった吉田修が教授に就任した。弱冠38歳の若き教授であった。吉田教授は大学紛争での研究の遅れを取り戻すべく精力的に研究、診療に取り組み、尿路性器癌の基礎的および臨床的研究に多大の業績をあげた。特に手書き友禅職人における膀胱癌の発生機序の研究は内外に高く評価され、わが国の泌尿器癌研究の第一人者の地位を得た。さらに吉田教授は稲田教授の尿路結石の全国調査を引き継ぎ、昭和54年(1979)、昭和63年(1988)の2度にわたり行い、戦後の尿路結石の変遷を報告した。臨床においても種々の成果をあげ、特に癌化学療法を世界のトップレベルに押し上げ、わが国の癌治療を牽引した。
学会活動としては、平成元年(1989)には第3回日本エンドウロロジー・ESWL学会を、第7回World Congress on Endurology and SWLの会長を務めた。さらに平成5年(1993)には日本泌尿器科学会総会の会長を務め、さらに同年日本泌尿器科学会理事長に選出された。その他主催した主な学会には、第2回泌尿器科腹腔鏡下手術研究会(平成5年)、第9回SMIT会議(Society for Minimally Invasive Therapy)(平成9年)、第5回日本癌治療学会総会(平成9年)などがある。
さらに、京都大学医学部付属病院院長(平成5年〜9年)、東亜大学大学学長(平成9年〜11年)、日赤和歌山医療センター院長(平成11年〜13年)、奈良県立医科大学学長(平成13年〜20年)、現在「iPSアカデミアジャパン(株)」社長(平成20年〜現在)を歴任している。京都新聞文化賞(昭和55年)、高松宮妃癌研究基金学術賞(昭和60年)、紫綬褒章(平成9年)を受賞している。(「京都大学百年史」、一部改変)
( 京都大学泌尿器科教室出身の教授 )
No. | 氏名 | 入局 | 大学 | 期間 |
---|---|---|---|---|
1. | 岡 直友 | 昭和13年 | 名古屋市立大学 | 昭和28年〜昭和51年 |
2. | 近藤 厚 | 昭和14年 | 長崎大学 | 昭和36年〜昭和55年 |
3. | 石神 襄次 | 昭和20年 | 大阪医大 | 昭和32年〜昭和40年 |
神戸大学 | 昭和41年〜昭和60年 | |||
4. | 多田 茂 | 昭和21年 | 三重大学 | 昭和43年〜昭和60年 |
5. | 後藤 薫 | 昭和22年 | 岐阜大学 | 昭和36年〜昭和43年 |
6. | 宮崎 重 | 昭和22年 | 大阪医科大学 | 昭和41年〜平成3年 |
7. | 新谷 浩 | 昭和23年 | 関西医科大学 | 昭和35年〜平成2年 |
8. | 仁平 寛巳 | 昭和25年 | 山口大学 | 昭和38年〜昭和42年 |
広島大学 | 昭和42年〜昭和62年 | |||
9. | 酒徳 治三郎 | 昭和27年 | 山口大学 | 昭和42年〜平成3年 |
10. | 友吉 唯夫 | 昭和32年 | 滋賀医科大学 | 昭和53年〜平成9年 |
11. | 川村 寿一 | 昭和39年 | 三重大学 | 昭和60年〜平成13年 |
12. | 小松 洋輔 | 昭和39年 | 関西医科大学 | 平成2年〜平成7年 |
13. | 岡田 謙一郎 | 昭和41年 | 福井医科大学 | 昭和63年〜平成13年 |
14. | 林正 健二 | 昭和47年 | 山梨県立大学(看護学部) | 平成7年〜現在 |
15. | 岡田 裕作 | 昭和48年 | 滋賀医科大学 | 平成9年〜平成25年 |
16. | 藤田 潤 | 昭和50年 | 京都大学(分子病診療学) | 昭和63年〜平成15年 |
17. | 大石 賢二 | 昭和50年 | 東亜大学 | 平成9年〜平成20年 |
18. | 寺地 敏郎 | 昭和53年 | 東海大学 | 平成14年〜平成28年 |
19. | 松田 公志 | 昭和53年 | 関西医科大学 | 平成7年〜現在 |
20. | 荒井 陽一 | 昭和53年 | 東北大学 | 平成14年〜現在 |
21. | 谷口 隆信 | 昭和55年 | 旭川医科大学(生化学) | 平成15年〜現在 |
22. | 筧 善行 | 昭和56年 | 香川医科大学 | 平成13年〜現在 |
23. | 吉村 直樹 | 昭和56年 | Pittsburgh大学 | 平成20年〜現在 |
24. | 吉貴 達寛 | 昭和56年 | 京都薬科大学 | 平成21年〜現在 |
25. | 羽渕 友則 | 昭和61年 | 秋田大学 | 平成15年〜現在 |
26. | 山本 新吾 | 昭和62年 | 兵庫医科大学 | 平成21年〜現在 |
27. | 賀本 敏行 | 昭和62年 | 宮崎大学 | 平成21年〜現在 |
28. | 西山 博之 | 平成元年 | 筑波大学 | 平成23年〜現在 |
29. | 神波 大己 | 平成4年 | 熊本大学 | 平成28年〜現在 |
