“リターン○○”

昨年3月に不惑の年を迎えました。人生の方向が定まって迷いがなくなる年齢にさしかかったというのに、1年以上経過した今なお迷走中。孔子の時代より寿命も延びているので?45ぐらいまでは執行猶予かと自分で納得させつつ、知命を迎える頃には、心身磨かれるようになりたいと思う今日この頃です。

さて、今回は仕事とは離れて運動の話。小さいころからこれまでにやってきたのは剣道、スキー、ゴルフ、ヨットなどですが、とある理由で高校以来遠ざかっていた剣道を再開することになったのでいわゆるリターン剣士というわけです。後からいつでもリターンできる競技を選んでやっていたわけでもありませんが、小学生への指導も色んな事を再発見でき、細く長く続けていきたいと思っています。

剣道を再開するにあたり、20年近くブランクがあったので全く体が動かず、所作・形を覚えてないのではないかと思ったわけですが、当時のはんぱない練習量の多さでしみ込んだものは体が忘れないのだと自分でも驚いた訳です。(とはいえ中高時代の記憶は剣道に関したものしかほとんどないという状況なので忘れていたら悲しい事になりますが。)持久力は・・・長らくの不摂生により散々である事は言うまでもなく、ウルトラマンのタイマーのごとく3分までが勝負です。もう一つの問題は、平常心が薄れている事でしょうか。あぁ、不惑なのに惑うとはこれ如何に。剣道の稽古で考えますと、短時間で心を落ち着ける“黙想(もくそう)”が平常心に通じる無心を得る訓練となっています。何かとせわしなくスピードばかりが要求される現代社会だけに、静かに周りの雑音から離れられる瞬間は貴重です。

以下は留学前に子供達に書いた便りから

“・・・剣道の黙想は明治三十年ごろから一つの形式として取り入れられたようです(私は黙想という号令に慣れ親しんできましたが、現在は全日本剣道連盟では“静坐(せいざ)”と言っています)。静坐とは・・・まず、右手を下に左手を上に重ね合わせ、親指を触れるか触れない程度に合わせへその前に持ってきます。背筋を伸ばし、あごを引き、歯を軽く噛みます。肩の力を抜き静かに坐ります。息は、吐く息を長くして吸う息を短くしますが、ゆっくりと静かに長く呼吸をするように心がけるようにします。目は閉じずに膝前90cmぐらいにうっすら見ながら何も考えない。つまり、①姿勢を整え、②呼吸を整え、③無心になるという訓練の一つだという事です。どれぐらいの時間が必要かは決まっていませんが、短すぎては考える間もなく、長すぎては邪念が入ります。皆で心を無にするには1分~2分ぐらいが適切かもしれません。

また、へその前で組んだ手の形が意味するものは魂ですが、なぜか日本では昔から魂の形は玉ねぎ型です。武道館の屋根の上のあの大きな金の玉ねぎも灯篭のてっぺんもすべて同じものを意味しているわけです。時々皆さんを見ていると手の形がまん丸になっていたり楕円形になっていたり中には親指が重なり合っていたりして魂がへしゃげてしまっている黙想を見かけますが、これはきちんときれいな形をつくるようにしたいものです。へその少し下を丹田(たんでん)といい気が集まるところといわれており、剣道ではいつも重視されます。ここに力を入れることで腹がすわった姿勢が保たれ、心の動揺が抑えられると教えられます。静坐・黙想ではその丹田の前に魂を置くことで精神を集中させるということが重要なのだと思います。・・・”

こうした所作の一つ一つの意味がわかるのはさすがにもっと先なのかもしれませんが、

少なくともあまり(というかほとんど)練習出来ない今と20年前の自分で試合をしたら勝てそうな気がするところが剣道の奥深さでしょうか。また来年度の段審査に向けて修行、修行。

 とはいうものの、横から飛び出ていた車に激突して手塩にかけたバイクを全損してからそれなりの年月が経ち、最近の技術進歩で魅力的なハイテクマシンが揃っているのを見るとまたムズムズしてくるあたりまだまだ修行が足りません。隙あれば再開したいライディングも実際のところこの年齢で再会するとリターンライダー?と言われるのがかなり恥ずかしく悩ましいところ。当時の限定解除の一発試験、難しかったのになぁ。

本厄を車ではなく写真のバイクで攻めて乗り切りたい気持ちでいっぱいの助教の山崎でした。